先ほど友人より、
宗教活動のお誘いがありました。
「今日?先生のビデオを放送するから??に来て欲しい。私のお願いじゃなくて、あなたの為なんだよ!!」
とのこと(笑)。
普段はわりと付き合いの良い私ですが、
この手のお誘いは、
お誘い当初よりスッパリお断りすることにしております。
6年位前、まだ私が学生の頃です。
友人で1級後輩の女の子から電話がありました。
「新田さん? 今から一緒に御飯食べに行きたいんだけど…、どう?」
おっ、なんだ、こいつ、
俺のこと好きだったのか…。
かわいいヤツ。
今夜はおしおきだな。
なんて思ったのもつかの間。
お店でテーブルに着くと、正面に、ちょっと怒った顔の知らない年配の女性がおいでになりました。
既にちょっとイヤな予感はしていたのですが、
案の定です。
でも、
せっかくだから楽しんで行こうとアグレッシブに気持ちを切り替えて、
女性に
「メニューです。何食べますか?」
「食事は後にして下さいっ!!」
「そう…、でも俺は飯を食いに来たつもりだから食べるよ。おばさんもお腹がすいたらちゃんといわなきゃダメだよ。あ、自分の分は自分で払ってね(笑)。」
すごい睨んできます。
とりあえず私はビールを注文します。
「飲み物もやめてください。失礼ですよ!!」
これはもうシカト…。
「おばさんの飲み物は? 1杯は何か注文しないと…、お店に悪いよ…。」
「いいんですっ!! 結構ですっ!!」
…、
「あっ、じゃあ、とりあえずお話をどうぞ…。」
ビールを呑みながらお話を一通り伺いました。
要約すると、どうやら、地震が来るようです。
その地震を回避して、あんたを助ける為に、私達の仲間になれと言って
います。
そこで私は、地震は周期的に来るものなので、地震の日時と震源地を特定してくれとお願いしたのですが、これは出来ないとのこと。
聞くことは大体聞きましたが、
返答内容はどんどん感情的になって行きます。
これに参加しないとあなたの今のビジネスが失敗する等、
最後はもうゴリ押しの力技です。
…、
この女性は、私の目で見て、不幸な方です。
この為に、自身の子、旦那様等、多くの人に失望されて、色々なものをなげうって、失ってきたことでしょう。
ですが、人生を自己満足であると仮定するならば、自分を不幸と思っていないこの女性は、不幸では無いはずです。布教活動に熱心に参加されている、少なくとも今のうちは…、
ですが、私にとって、この女性のことはどうでもよいことです。
そんなことよりも私は、この友人のことが心配です。
あの人の言ってることおかしいぞ。
なんて言うと、この友人のことも否定してしまう。
否定してしまうと、この友人は口をつぐんでしまう。
でも、ひょっとして、この友人は、彼女の今日のそのおかしさに気が付いていてくれているんじゃないのか?
なんて淡い期待もありました。
軽くジャブを出します。
「きっと俺の事をきずかって言ってくれたんだろうけど、あれじゃ伝わらないな。」
「そうなの。あの人すごいんだよ。新田さんも、そのことにいつか気付けるといいね。」
「 ………、 そうだな。」
彼女は世間の表向きの情報を疑わず、
真に受けて育ったのでしょう。
むしろ、疑うことは悪いことだとして、自身で考えることを諦めたのかもしれません。
そう、彼女を支配するものは、彼女の意思では無いのです。
但し、本人は自分の意思、もしくは自身で課した使命だと思い込んでいます。
ある意味、純粋なのかもしれませんが…。
私はこの友人に、
なんて教えればいいのか解らない。
何処から教えればいいのか解らない。
思い出に残る、
とても悔しい思い出です。
私は、神を自分以外の誰かだとおもいません。
もっと厳密には、神は、自分の心の中の良心だと考えています。
自分の解らないことはする必要がありません。
それをしようとするから何かにすがってしまう。
解らないことをしようとするから解らない人にすがらねばならなくなる。
こうなると、すでに自分の良心ではないので、ここからは宗教です。
私の良心は結構頻繁に私の私利私欲に負けます。
ただ、負けることが悪いのではなくて、例えば、良心に忠実に行動するならば、クライアントから料金は頂かず、ずっと仕事に明け暮れることとなります。
ですが、それでは続かないので、自分の生活の為に、やっぱりお金を貰わなくちゃということになります。
ただ、そのお金は私利私欲です。
でも、必要なものです。
要は、そのバランスが大切だということです。
だから、私利私欲に負けない(傾斜しない)為に、良心を磨かなくてはなりません。
その為には、勉強の為の資料が必要かもしれません。
必要だから買うのであって、同じ本を何冊も買う必要はありません。
ただ、宗教の本はあまり参考にならないかと思います。
筆者である宗教家は皆様を教化することに既に利害関係をお持ちなので…、
特定のイデオロギーに限らず、色々な分野の、色々な考え方の本をよめば良いと思います。
そして、
もっとも大切にしなくてはならないのは両親です。
あなたの崇拝する宗教の創設者ではありません。
ブッダでも、キリストでも、アラー等でもありません。
仮に彼らが実在したとしても、彼らはただの他人です。
もっと厳密に言うと、あなたを育てるために苦労してくれた人、産みの親と育ての親がいれば、大体のケースでは育ての親がそれです。
私の母親は状況によっては情緒が不安定気味になる場合があり、過度の過干渉も重なり、私はあまり自宅へ戻らなくなりました。
仮に居ても居間におりません。
食事は5分で済ませました。
世話になりたくない気持ちでか、なるべく御飯ばかり食べました。
今でも、間食は一切せず、大変に早飯です。
ダメな子になる黄金コースです。
以下プチコラム
「 子供にとっては、母親が最も大きな影響を受ける人間ですので、この人格の一部でも否定せざるをえなくなった場合、もしくは自分でその必要性に気が付いた場合に、母親を批判し、本来自身があるべき姿へと修正を加えていくことは、子供にとっては大変な試練です。
そして、この段階を経過出来なかった子供は、(A)突然に暴力性が突出するか、(B)もしくは引きこもりとなり、(A)(B)共に最終的には家庭内暴力を行うようになります。このケースで行くと、暴力の対象は母親となります。 」
でも、両親が世界で一番大切です。
辛い思い出もあったが不幸だったとは思いません。(今となっては。)
何故かと言うと、この経験を乗り越えたことが、今の私の土壌を作ったと思うからです。
ですが、部分的ですが、一連の環境は悪かったのです。
これはこれでしっかり自覚し、強く信念を待ち、何の過程に間違いがあったのかを哲学しなければ、間違いなく自身の子に連鎖します。
母親は私のことをずっと愛し続けているでしょう。
そして、母親にとってそれは、私の為にならない事だと気付かなかったのです。
ですが、
事実、
私を育てるために一番苦労してくれた人です。
ですから私は、
この母親を愛し続けます。
おっ、ちょっと話が飛びましたね。
でも、ブログは書き換えれるのがとても良いです。
メルマガなんて勢いで書いたのが即時全国配信されるんで、
翌日には「あ?、やっちゃったなー。」なんてしばし思います。
とりあえずこの辺でアップして、また翌日書き直しますね。
おやすみなさーい。
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テーマ:虐待を受けた子供たちに何ができるか - ジャンル:福祉・ボランティア
- 2006/06/12(月) 03:01:54|
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