俺さ、この前、酒の席で失敗したのよ。でさ、反省しながらついでにブログ記事にまとめてる最中です。今日はちょっとだけ謙虚です。
俺ってさ、あんまり人との会話を楽しまないタイプなんだよね。名刺も貰わないし、渡さないし、そもそも名刺を持ち歩いていない。人として終わってるでしょ? うん。俺もそう思うよ。ありがとう。みんなも俺と実際に会ってみようよ。俺さ、きっとガッカリさせられる自信があるよ。そうだっ!! 次回のB-1グランプリの時とかにでも甲府へおいでよっ! 行きたいって方がいたら是非連絡ちょうだい。ブロガー協会のみんなで案内して一席用意する。マジだよ。俺にはガッカリするかもしれないけど、協会のみんなは素晴らしいから、きっと満足してもらえると思うんだよね。これもマジ。
でさ、こういう酒の席での失敗ってもちろん2次会以降なんだけど、俺2次会ってあんまり行かないんだよね。基本的に。1次会から全力で飲むから。1次会からみんなが楽しそうに話してるところを聞きながら、ボーっと全力で飲んでるのが好き。俺も昔はさ、大いに人と人との関係性の中で生きてきたんだけど、何かそういうことどうでもよくなっちゃったんだよね。もっと自分の内と生きていこうと。ある時から外へ興味が行かなくなった。何と言うか、30を過ぎて、仙人のようになったな。
例えば、女友達が近所の主婦の噂話(ちょっと派手で若いママだったり、周囲とは異なった雰囲気や自由な生き方をしてるといった類の噂話)のターゲットになり、噂されていることについて俺に意見を求められたとする。俺は主婦の噂話に興味がないけど、酔っているほど正しく答えてあげようとか意味のない不必要なお節介心が芽生える。そして、抽象的な結論だけを伝えてしまうクセがある。で、「まあ、おまえら、女同士ってのはな、往々にしてそういうもんだぞ」って総括して締めくくっちゃう。すると、女がみんな反応する。今、私のこと言った!? 攻撃した!? みたいな流れになる。続けて俺が「いや、そうじゃなくて、まあ、昔からの田舎者って往々にしてそういうもんだぞ」って話すと、山梨県民みんなが反応する。今、県民全体のことバカにしたよな!? みたいな感じなんだと思う。みんな、何となく感覚的に自分が所属してそうなフレームにアイデンティティ感じるんじゃなくて自己にアイデンティティ感じる生き方しようよ。
このケースで俺の言いたかったことを自分流に翻訳すると、「人、特に女性って特定の地域へ土着して子供を育て続けるのにリスクがあるから、男性と比べて周囲と比較したり、周りの目を気にしたり、こだわりやすいし神経質にならざるを得ない。それはお互い様だから、分かってあげなきゃ。で、しかも人の流動性が低い昔ながらの田舎こそ、既存の古い慣習なんかの統率が強くて当たり前。君(噂された女友達)が耳にした噂話は、噂話をした特定の女性(ご近所の主婦の方)に対してのみの問題ではない。その女性と同じように地域の人もみんな慣習は正しいことだと思っている。だから君の意見は地域のみんなに対して通らないのは仕方ない。でも現代日本社会の構造上今までの維持が難しくなってきているのは当然だし、何より自分の負担が大変であればそれを伝えて一部の理解者を作って自分だけ離脱するのもいい。地域の人全部を変えるなんて無理だし。人は変わらない。そもそも自分が気にしないで済むじゃそれだけの話だし、どうしても気になるじゃ物理的に距離を置くかだよ。つまり、問題の本質は噂話をした女性ではなくて古い慣習の問題だ。もっと言うと、君がどうしたいかだよ。」みたいな話を伝えたかったりする。
俺は酔っていると難しい内容を伝えようとする。質問者への親切心というよりは、自分を試しているのだと思う。酔っている俺自身の無意識から外界へ向かって何か新しい言語が湧いてくることを期待しているかのような(身勝手)。俺は多くの人の世間話のように目先の現象を感情で解釈するんじゃなくて、奥にある原因の話だけをしている。「佐藤さんがこう」とか「山田さんがどう」とか言われても、そういう話を俺はしない。そういう話を多人数でしてしまうと悪人を捏造することになってしまう。だから、一人称じゃなくて、「そもそも女性とは往々にして…」とか「そもそも田舎の人たちは往々にして…」っていう大枠のフレーム・現代日本社会の構造で括って話をする。より上位概念のそもそも論の話をする。だから俺の話はだんだん哲学の話になってくる。
人ってみんな、既存の常識や慣習や言語なんかに統率されてるじゃない? そりゃあもう、みんな統率されまくりのはずだよ。もう、無意味な統率の連続。役人なんて特に可哀想なくらい酷いだろうし、どこの会社も、どこの家庭もどこだってそうだよ。各会社ごと、各家庭ごと、各グループごとから、全部違う統率を受けている。俺はその統率はそもそも何故必要なの?社会の誰の何の為に?っていう具合で、より上位の概念を一から考え直して覆しちゃう革命児。ところが、だいたいの人はそれら上位概念は従うべき当たり前のことだと思い込んでいるみたいでそもそも考えることすらないみたい。そういうだいたいの人たちは上位概念の統制を当たり前の前提として、下位概念の話しだけを理路整然と論理的に一つ一つ話す人が、多くの人にとって賢い人なんだよ。より多くの人が納得する話が、自分にとっても納得できる話なんだよね。みんなが共通して抱える目先の問題に対して、口頭で目先の会話や、1生活者として人と人との関係性の中にある、より手前の身近な会話をして、1つの話題に対して2進法で会話が進む。善か悪か。黒か白か。無か有か。優か劣か。もしくは原因が奥深い話を分かりやすい数式に当てはめて、A=BでA=CならばB=Cが当たり前の大前提みたく単純化して結論を出す。新しい結論を出すというよりは、既にみんなから知られている結論の中から選ぶ。だから無難で月並な結論しか出ない。まあ、近所の世間話(行政・会社の会議も含む)なんてもんは往々にしてこういう域を出なくて仕方ないことなんだけどね。民主主義病と平等病を包括する現代日本病の一種だ。まあ、ハッキリ言って見渡す限りみんな病気。
はあ。まあ、どっちでもいいんだわ。だんだん朝食べたウンコが下がってきた。(「朝食にウンコ食った!」みたいなフレーズだな!)まずはフレームに囚われない人だけで、囚われない生き方を示そう。俺も俺にしかできないことをする。ちなみに、ブロガー協会では論理的に話すことは禁止。ホウレンソウすら禁止。多数決なんて言語道断だ。より多くの数ではなく、たった一人の英断こそ全てだ。ブロガー協会の考え方は世間の考え方と真反対だ。
世間の人たちってさ、つまりみんな力に従順なんだよね。より多くの力ってのは、力の正体、力の奥深くを知らない普通の人にてって、とどのつまり多数決なんだよ。より多くの数が、より正義。より多くの数が怖いから、名指しして批判されたらおしまいだ。数との対決を済ませていない善良な1市民であるあなたこそが、実は、本当の悪だ。数を恐れるあまり、悪を捏造するのであれば。
よし。今朝の俺は申し分ないほどに謙虚であった。現代日本人が対決するは、まさしく数だ。より多くから、たった一つへ。たった一人へ。現代日本社会へ、今、問う。全国ブロガー協会。
かなり昔にもこんな記事を書いたことがあるな。文字とか若干パケてるけど。→http://atamanowaruihito.blog63.fc2.com/blog-entry-412.html
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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2012/08/28(火) 11:41:54|
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相対的評価と絶対的価値
おいおまえら、俺だ。暑いけど元気にしてたか? きっともう時期ダメだろう。今日の俺は今更オリンピックの話題だぞ。オリンピックで体操って競技を見た。舞踊るリボンの華やかさに目を奪われた。奪われて、すぐに飽きた。選手が皆、同一の人間に見えたからだ。個性がなかった。理由が分かった。採点基準だ。解説者が審査員の評価ばかり気にしていた。たしかに、これだけの大舞台となると、選手はみな満点に近い高得点を狙うのだから、小さな減点が気になるのだろう。金・銀・銅という3つしかないメダルを相対的な点数の大小で奪い合うのだから、何かしらの相対的な評価基準があることは当然だ。原点主義も仕方のないことなのだろうと思った。
でさ、体操って競技はリボンを持つんだけどさ、そのリボンが地面に付くと減点の対象になるらしいんだよ。だから、みんなひたすらリボンをノンストップで振りまくる。だからみんな動きが派手。化粧も派手。東欧の手足が長い選手ばかりだった。日本のわびさび文化で育った俺から見ると、何と言うか、美しさに欠けるんだよなー。で、やっぱり日本の選手は体操って得意じゃないんだと思った。それならさ、思い切った行動に出て欲しいな。例えば、和服で、時として座って、リボンでお茶を立てる仕草をしたり、途中でリボンを落として止まったり(これは既存のルールでは大減点の対象)、静の中の動や、動の中の静なんかを表現したりできないだろうか。例え最低点でも、ほんの一握りの人へ強い感動を与えることができるかもしれない。そうすることで、それ自体とその人自身へ新しい絶対的な価値が付く。さらには、新しい採点基準ができるかもしれないし、新しい競技種目が産まれるかもしれない。1競技の選手の枠を超えて選手を包括する新しい競技の創設者になれる。文化は大切だが、マネを続けるだけではダメだ。既存のシェア・パイは、少しずつでもずらしていかないと豊にならない。進化しない。始まりはいつでも、たった一人の人間の奥深くから始まる。
演技の終了後のインタビューで、記者から「残念ながらメダル争いからは外れましたが(もちろん最低点ですが…。)会場へ感動を与えました。(もちろんほんの一部ですが…。)今の心境は?」とか聞かれて、「ええ、数に限りがある物は、まあ、他人へ渡してあげていいかなと思いまして。まあ、私にはそういう物は必要ないのですが、彼らはああゆう物が無ければ生きて行けませんからね。それしかないんですから。あいつらには。これをご覧のお茶の間のみなさまと同じように、俗物ですから。」とか答えたら面白すぎる(笑)。で、記者は真っ青になって「いやいや、(おい!生放送だぞ!)今の演技はTVをご覧の視聴者の応援のたまものですよ!次回はメダルを期待しています!」んでまた「いや、メダルは取らない。金メダルは取ろうと思えば取れるかもしれないけど、そのためだけに自分の若い貴重な時間の全てを使うってのは優先順位として著しく低い。私は他にもしたいこと沢山あるしさ。万が一にでも間違ってメダルを取ってしまったら私の次の人へ渡してほしい。1競技の中の体操のメダルがどうとか話が小さすぎる。私は自分の演技を通して、地球上へ新しい価値を創造したんだぞ。今、既に。実は、私が大宇宙の創造主なのだ。」とか言ってみるみたいな。一生のネタになる。いつか全国ブロガー協会からこんな創造的で強い哲学で生きる人間を世に輩出できる日が来るだろう。
相対的評価と絶対的価値について。より多くの他者か、自己か。より多くの数か、質か。人生において重要なことはどっちだろうか。もちろん、バランスだろう。このバランスが前者へ傾きすぎると疲弊する。価値が分散し始めた現代日本においては後者へバランスをシフトできる者が自己実現できる。現代日本人には相対的・物理的なより多くの数と、精神的・絶対的な自己だけの対決の場所が必要だ。より多くから、たった一つへ。たった一人へ。現代日本社会へ、今、問う。全国ブロガー協会。
テーマ:創造と表現 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2012/08/22(水) 15:29:11|
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